Graduation theshis , 2013.4.01-2013.12.10
江戸末期、ペリー来航など揺れ動く時代の中で、1854年に安政の江戸地震という大きな震災が起こる。歌川広重の『名所江戸百景』という作品は復興の意味を込めたものという説は定説ではない。けれど、東日本大震災や阪神淡路大震災など大きな地震を体験する中で、芸術家が災害の中で新たな作品を作り出そうとする志向は今も昔も通ずるものがあるのではないか?と考えた。
この論文では原信田氏の説に基づき災害からの復興という祈りをこめたものとして描き出す。東日本大震災、阪神大震災などの大きな災害が続いた平成と安政という時代は重なるものがあるのではないか?『名所江戸百景』という作品を通じて、震災を乗り越え生きてゆく様を描いた。
『名所江戸百景』という作品は、浮世絵師 歌川広重の最晩年の安政3年(1856年)2月〜同5年(1858年)10月に発刊された。 広重の生前には完成せず、二代目広重の手によって完成されたといわれている。二代目の補筆を加え、 『一立斎広重 一世一代 江戸百景』として発行されている。版元は魚屋栄吉であり、作品自体は、幕末から明治にかけて活躍した図案家梅素亭玄魚の目録1枚と、118枚の図絵から成りたっている。 この目録1枚と、二代広重による『赤坂桐畑雨中夕けい』を加えた120図に及ぶ総数は、錦絵の揃物としては最大規模にあたり、高度な摺刷技法の駆使、化学顔料•染料の鮮烈な色彩感、人目をひく独特な構図など、幕末の名所絵を代表する作例となっており、数多くの名所絵を手がけてきた広重の最晩年の集大成ともいえる作品である。 本論文では、生涯で、1000枚以上もの江戸名所絵をてがけた広重の作例とは、名所の選定や、構図において変化があることを、大久保純一氏の説に基づいて指摘した上で、最晩年の「名所江戸百景」が新たな「江戸」のイメージを創り出していると仮定し、考察した。 第1章では、この『名所江戸百景』の背景となった、名所絵の普及や、広重の名所絵の特徴について論じた。広重の名所絵への現在の評価は、時代を下るにつれて、豊かな情緒性が失われ、図様がマンネリ化していると指摘されることが多い。それに対して、名所絵の商品としての性格を踏まえ、「名所絵の定型化」という視点から、商品としての広重の名所絵の普及について考察した。
第2章では、『名所江戸百景』の主題と表現形態を、当時の時代背景から考察した。まず、この作品が描かれる直前に起こった安政大地震と『名所江戸百景』の関係について、原信田氏の説をふまえた上で、時代背景が主題となる、名所の選定にどのように影響を与えたのかを確認した。さらに、季節による分類ではなく、改印からそれを年代順に並べることで、作品の構図が名所図会風から近像型構図へと変化していることを指摘し、『江戸名所図会』の俯瞰構図や、図様の源泉になった北斎の『富嶽三十六景』との比較から論じた。名所絵には不向きともいえるこの構図がとられた要因が、当時の絵双紙屋での販売形態や、版元の変化に起因することも指摘した。第3章では、『名所江戸百景』を、名所選定の戦略と、伝統と革新性をおりまぜた江戸の新たなイメージを創出しているという観点から論じた。この作品に描かれた名所は、それまで広重が描いた定番の江戸名所ではなく、また当時江戸の名所を網羅した『江戸名所図絵』にも描かれていない場所をも含んでいる。それを、当時の江戸の情勢や、安政の大地震による名所の変化によるものと仮定し、広重が表現しようとした新たな「江戸」のイメージを検証した。 そして広重が、伝統への回帰と現代性を織り交ぜた、新たな「江戸」のイメージを「写真」ということばに現れた表現の観点から考察し、結びとした。